今年は本当に雨が降らない。
毎日続く暑さに、心も体も疲弊していく。
ちょっとしたことに腹が立ったまま、本来の自分の姿に立ち返る余裕もないまま、暑さにくどくどと文句をつける日々を過ごしている。
畑の作物も、このどうしようもない暑さで、成長の勢いが弱まってきた。新芽も貧弱で元気がない。
枯れるものは枯れ、生きるものは生き残り、それぞれがこの暑さに我慢を強いられている。
でもそれでもほとんどの作物が生きることをやめない。
勢いは失っても、貧弱に見えても、強かに少しずつ成長して、それぞれの形でこの暑さを乗り切ろうとしている。
ここ数日、新聞やニュースの話題はオリンピックと南海トラフ地震の話題で持ちきりだ。
ウクライナの戦争はどうしているのだろうか。
レスリングの試合でウクライナ出身の選手を見てふと思った。
世界では今この瞬間も色々なことが起こっている。
見えても見えていなくても、物事の大小関係なく、常に世界は動いている。
8月に入ってすっかりおさまったかと思った暑さが、ここに来てまた猛威をふるっている。
連日続く30度越えの気温は、20年前にはあり得なかったことだ。
今朝新聞のコラムに目を通すと、こんな記事を見つけた。
自然は日々変化しており、絶滅した生き物もこれまでに多くあった。滅びるものは滅びる、それが自然の摂理だが、近年その変化が急激すぎることに気づいている者はどれくらいいるのだろうか、ということが書いてあった。
外へ一歩踏み出せば、太陽が轟々と照りつけてくる。もう目を開けるているのさえも嫌になるほどだ。
この暑さと眩しさで、目が痛み、皮膚がヒリヒリと焼けるのを感じる。まるで全身が外へ出るなと訴えてきているようだった。
そんな調子だから、しばらくの間は潔く畑へ出るのをやめていた。
毎日15分ほど畑の様子を見てまわるだけにして、暑さをものともせずに実をつけ続けるキュウリを3-4本収穫をしては、すぐさま撤退するという日々を続けていた。
トマトがうまく育っていないのも気づいてはいたし、わかってもいた。苗数本の葉が萎びてしまい、色は鮮やかな青緑から今にも枯れてしまいそうな黄色に変化していた。
でもそれを気にかけて、手をかける、そんな余裕も全くなかった。
癒しだった畑へも足が遠のくほど、暑さと日常でのちょっとしたことに神経を逆撫でされていたのだ。だからただ毎日キュウリの収穫のために、義務的に足を運んでいたのだった。
枯れ始めたトマト
本当に疲れてしまった。
自分の中にジュクジュクと育っていたこの言葉を自覚するまで、
疲れていたことにも気づかない、いや、見てみないふりをしていた
そんな生活を送っていた。
「疲れてしまった」
それを認めることがどんなに難しいか、そして認めることがどんなに大切なことか。
知っているし、わかっているし、心に刻むと誓ったつもりでもいた。
でも何度同じことを繰り返しても、いつの間にか忘れてしまう。
気づくこと、目を向けること、認識すること、真実を認めること
それらがいかに大切かということを。
「寝ても覚めても、疲れが抜けてくれない」というその事実は、自分が疲れているという事実から目を逸らしている自分から始まっている。
自分を大切にすること、労わること、労うこと
どれも自分が疲れているという事実を認めなくては、始まらなかった。
目を逸らし続ける自分に慣れっこになっていて、目を逸らし続ける間も、苦しみにもがいている。まるで苦しむのが当たり前なのだと誰かに叱咤され続けているかのように。
その中でも必死に生きている。
その必死さも事実であることに変わりはないのだけれど。
疲れていること、毎日もがいていることに気がついてそれを認め始めたら、あっという間に畑を見る目が変わっていった。
少ししゃがんで苗を観察する余裕も生まれてきた。
花に集まる虫たちに、愛おしいという眼差しを向けている自分に気づいた。
少しずつ少しずつ
やっと戻りたい自分の姿に、戻りつつあった。
今晩上陸する予定の台風5号の影響で、すでに畑には空っ風が吹き荒んでいる。
インゲンのために立てていた2mをゆうに超える支柱は、風に踊らされるがまま、空中をふらふら行ったり来たりしている。
何かを感じ取ったのか、ありとあらゆる方向に蔓延っていたキュウリの苗の先端は、早速首をもたげ始めた。これから起こるであろう身の危険に備えて、天に伸び続けることよりも、生き残ることを優先させて地に這うことを選んだようだった。彼らも台風に備えて、身を守ろうと必死になっている。
こういった外見の大きな変化が日常的に起これば、容易に気づくことができる。
でもそれが小さなこと、自分自身が目を向けたくないことであればあるほど、気づくことをやめてしまう。そうなった時、それが連続する時、世界が憂鬱で、どうしようもなくて、不甲斐なく思えてくる。
愛おしさなんて存在しなかったかのような、そんな気持ちで全世界が覆われてしまう。
そういう自分から逃げ出したくなって、衝動的に食べることで、旅に出ようとすることで、本を読み漁ることで自分の声を隠そうとする自分がいる。
でも本当は、逃げ出そうと必死にならなくても、ただ認めてあげるだけで全てが解決してしまうこと、自分の本来の姿に立ち返ることができること、
たったそれだけなんだけれど、
やっぱり忘れてしまうんだった。
とはいっても、畑を始めた頃に比べたら、気づきのペースは速くなっている。でも忘れてしまうのはもうどうしようもない。
それを含めてさえも今の自分なのだから、
そんな自分をせめて嫌いにならないであげることが
今できる一番のことだ。
そう自分に言い聞かせて畑を後にした。
気分が少し晴れてきた。空っ風に、心に滞った鬱憤がさらわれていったのだろうか。
さて、今日は何をしよう。
やっぱり食べて、本を読んで、山へ散歩に出かけようと思うのだった。
さっきまではなかった、少しばかりの気づきと自分への愛をたずさえて。
やっぱりそれが好きだから。
それがわたしなのだから。
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